猫頭の文房ブログ

人間を獣頭人身で「分類」すると、私めは猫頭。その書斎もとい文房(自室)日常ブログ

「太陽は日々新しい」

今日見たテレビのベニシアさんの夏休み

http://www.nhk.or.jp/venetia/past/past120914.html
Vol.85 和紙の里へ〜福井県〜
和紙の敷物「油団」や夏障子、素敵でした

今日読んだ荒川洋治さんの台詞

本らしい本を読まない人たちがふえた。
目の前のものだけを見るようになった。
文学は、現実の奥底を照らすものだ。
見えにくい現実を知らせてしまうものを人々はうっとうしく感じるようになった
そういう人たちが新しい時代を作り始めた。
すぐれた批評家にも想像できないことがあった。
文学がここまで凋落するという事実である。うかつだった。
人の命と同様に、文学にも寿命があると気付く人はいなかったのだ。
どこに、何があったのか。どこに、何がなかったのか。


誰も怖いもの(深淵)を日常的にみたいとは思わないのだ・・
どうなんだろう・・ 文学の寿命とは・・・
尽きてしまった?
表現の形式の はやりすたりだけではないという話?
どうなんだろうか・・・そうでありそうでもないのかなという・・感想・・
やっぱり、表現形式が変わったんだろうととらえているのだが・・
「文学」というのが、18,19世紀の文学遺産のことであるとしたら、本当にどうなの?
もっと長いスパンでの『文学』なら、・・どうなの??
それも文学じゃなくて映像方面に行ってしまったのかな?

荒川さんの先の話は白川静の漢字学の怖さを言った後に出てきた話なんですが・・
つまり

甲骨文字、金文など漢字の始原の形をもとに、「道」は異族の首をぶら下げて歩くことであり、「眞」は行き倒れの死体である、との意味を突き出し衝撃を与えた。
死体は動かないもの、永遠のもの、それだけにほんとうのものであり、 そこから「死」は「眞」を生むことになる。 かって文字は宗教に深くかかわり、甲骨や青銅器には生き死ににかかわる言葉が撰ばれる。 だいじなことしか刻まない。鋳込まない。 それが、文字の、ことばのはじまりなのだろう。 いまは誰でも簡単に、なんのことでも書くが、その自由はほんとうのめぐみになっているのかどうか。

他に 「日記の『新年』」とタイトルの文を読みました
まず、博文館新社の懐中日記の話
「二日ごとに、とても小さな文字で格言がついている」という

・・ほぼ日とは違って
「太陽は日々新しい」(ヘラクレイトス)
「人はみな分かることだけ聞いている」(ゲーテ)とかで、

これらはおそらく初版以来のもの。いささか古い感じもするが人間にの真実は変わらない。いい言葉ばかりだ。

それでですね、

僕の日記は、大学ノートだ。一日数行。一冊で、三年分。この方式で三十年つづく。
日記をつけない人は言う。いったい何を書いたらいいのかと。何も書く必要はないのだ。(中略)
日記をつける「ひととき」は自分が自分の呼吸に帰る時。ちょこっとつける。ほんの1〜2分だ。
日記は内容ではない。そこにその人がいればいい。
田山花袋は言う。「こういうことをした、ああいうことをしたという行為を書いておく方が「日記」というものの本来の性質にかなっている。」
高見順はこれを受けて、「若いうちはなかなかそれができない。その厳しさに耐えられない」
ありふれた言葉がベスト。こんなところで小説家や批評家になることもない。すごかった、よかった、楽しかったでいい。決まった時間につけると健康にもよい。

このあとに先日の「今はやりのブログ」に関する批判があり(ちなみに今とは2008年のこと)

書きたいことなどなくていい。個人のひとときがある方が、よほど大事

手帳を兼ねる日記も登場したが、日記は別に持ちたい。日記は「過去」の事実を記す。手帳は「予定」。

にゃるほど?

二つは交わらない。人間の活動や意識はひとまとめにせず切り離しておきたい。

ええ〜〜つ?
してみると、フランクリン・コーヴィーより前に変えるわけ?
いや、実質問題、日記と手帳の兼用が難題であることには変わりがないのですが

日記はその人の工夫で生きたものに。

それはともかく、来年の手帳、はやばや(?)ほぼ日の軍門に下っています
WEEKSね・・・
これが「手帳」これには、トラベラーズの方眼ノートを足すことにします
日記の方もね、ほぼ日オリジナル(映画のチケットはったりする)だったのですが、やっぱり小さいのだ・・・
かといってA5のカズンはどうも?
ベストなサイズとしては、モレスキンのラージサイズ(A5変形スリム)がいいけど、日付の課題もあるがまず高すぎる・・
B6もよいけど・・ほぼ日には無いのだ・・それに両方ほぼ日というのは芸がなさすぎる(笑)