猫頭の文房ブログ

人間を獣頭人身で「分類」すると、私めは猫頭。その書斎もとい文房(自室)日常ブログ

本の話

池澤夏樹編の岩波新書『本は、これから』(2010年)
多少古いが、面白いので、以下要旨まとめ
(※読み返したら字が間違っているので直しました(~_~;)20150209)

紙という重さのある素材を失ったために文筆の営みはすっかり軽くなり、量産が可能になった分だけ製品はペラペラのものばかりになった。そもそも人類の知の総量が変わるはずがないのだから、インターネットによって生産を加速すれば中身は薄まる理屈だ
紙の重さは最後の砦
紙でできた本を愛する
しかし自分は紙に書くことを捨てた人間だ、という
父の世代に身近なものだった文房四宝は我が身には程遠いものだ(池澤夏樹)

記録媒体としての電子書籍(やたら記憶が得意なシリコン頭にうってつけである)
自分の頭を鍛えるための紙の本(考え創造するカーボン頭に最もふさわしい)という棲み分け(池内了)

読書という作業をするための道具は変化するかもしれない、読書そのものは永遠に不滅
書店が多数あり、国民が読書にふける国は発展する(池上彰)

「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」というレヴィ=ストロース「悲しき熱帯」の終盤の一節は、太古の壁画の前でより切実に響いた。人がいなくなった無人の荒野で人類の歴史を物語るのは、物質に刻まれた痕跡としての活字だろう。本は自分が死ぬまで歩き続ける装備(石川直樹)

書物をマテリアルな基質の世界へと連れ戻し(書物としての身体を、身体としての書物へ転換)
純粋に物理的な身体に宿ることになった思念というものの決意を語る(今福龍太:1955生、文化人類学者)

「これからの読書は検索読みになる」−名和小太郎・・書物を愛すが、書物よりもコンテンツの方がもっと大事だ。デジタル情報のネックは変化と劣化が早いこと。書物という伝統工芸品はなくならない(上野千鶴子)

活字中毒患者は電子書籍で本を読むか?・・紙の本という確固とした基盤抜きでは電子書籍はそもそも存立することははできない
読み始めから読み終わりまでの全工程を上空から鳥瞰している仮想的視座が無ければ、そもそも読書を享受することは不可能(内田樹)

究極の本は「自然」であり、古典を含めすべての本は先行する本を読むメチエを伝える本だったということになる(岡崎二郎)

本という文化、読書という文化の特性は、ゆっくりということ。本をめぐる今日の難問は、ゆっくり、という時間を生きることがいつの間にか難しくなってきているということに尽きる(長田弘)

ホームページはかろうじてページ概念があったが、ブログは巻物化が顕著になった。電子ブックは先祖がえり。
物である本はテキストのみならず、豊かなコンテクストを伴う。編集や書籍販売という仕事も突き詰めればテクストにコンテクストを付与する作業。(桂川潤)

半呪物としての本から呪物としての本へ。頑固食わず嫌いの蒙昧さ。
21世紀は、「何を読んでなく、聴いてなく、食ってなく、経験してないか」の減算的プロフィールの時代(菊池成孔:1963生 音楽家)

電子書籍の網羅性、洋書の入手難の解決、写真ジャーナリズムの分野は活字よりも有望で、新しい媒体としての魅力がある
紙の本に対する各人のイメージに相違がある、考える読書か、消暇的な読書か、
西洋には知識の媒体である書籍をその量にたじろぐことなく、精力的網羅的に集める思想が存在する。
電子化を奇貨として日本の書籍を日本文化を発信するための武器とするべき(紀田順一郎)

書籍文化の本質は先端技術の極北に位置する孤高の存在
電子書籍なるものが一番活躍するのは「書籍のようなもの」の電子化。僕の考える書籍は決して実用書じゃあない。(五味太郎)

本は、人が生きた証として、永遠の時を刻む、紙か電子かは門構えの違いだけ。(最相葉月)

綴じる悦び、閉じない夢想 本の電子化が進んでも紙の本がなくなることはない(四釜裕子:製本講師)

本は厄介な品物で複製品でありながらある種のオーラを纏っている。人は本を手に入れると同時に本を形作っている何もかも引き受けることになる。
本を手に入れるということが、「手に入りうるすべての本の中から、自分で選ぶ」ことを意味するようになった・・選択肢が増えるほど選ぶのにエネルギーを費やさねばならなくなる。
アルゴリズムを借りたプロセスは自分と本の中に記憶されない。だれもすべての本を知らない・・
納得できる何冊かの本とほどほどに出会える才能があれば、「すべての本」にいきつかなくても人は幸福に生きられる。(柴野京子)

出版の世界はこれからどうなっていくだろうという問題意識が、僕には明確に「ない」。
本を読む目的は、若いころから変わらない。大げさに言えば生きて行くための力とするためだ。知識に限らず、少しは苦労して手に入れないと身に付かない。
著作権は大きな発明だが本末転倒だと思えるようなことが何度も起りそうになった。「本は、これから」に続けるなら「適正な規模になる」(鈴木敏夫)

2010年「デジタル書籍元年」15世紀のグーテンベルクの活版印刷以来の「情報革命」だと言う人がいる。
「出版業がどう生き残るか」という戦略論でも、「どうしたら本が売れるか」という戦術論でもなく、「デジタル革命とは何か、それは本に何をもたらすか」
活版印刷は、「宗教や芸術のくびきから書物を解き放った」=書物から「聖性」をはぎ取り「物質性」に置き換え、教会や王侯による「知の寡占」を破った。
「アナログ情報革命」(約100年前、1887年から1906年までの約20年・・レコード、カメラ、映画、ラジオ放送などが登場=徳田雄洋)複製技術が芸術のいま―ここという一回性(アウラ)を衰退させた(=ベンヤミン)
デジタル革命は、知識のパッケージであった本の「枠」がはずされ組み換え可能な情報のモジュールとなる
人間そのものを変容させる力を持つ。紙がデジタルの奔流に押し流される前に、原点に返り、自分の中の「紙派」と「電子派」の議論を白熱化すべき (外岡英俊)

ユニークな棚づくりで、書店に行くと今の文化状況が分かる、本の配置関連で更に本を買いたくなる。今や、検索で書店員の大切な仕事が地滑りを起こしている(田口久美子)

1990年代後半から、海外における学術情報の流通は急速にインターネットに依存するようになった。
国内の情報はもっぱら印刷物とそのコピーデで電子流通に移行できていない=国内における学術的情報流通の基盤が崩壊している=インターネット以前から再販制・委託販売制によって低迷していた(土屋俊)

電子書籍は古書業界では論議にはいたらない。紙の本と電子のそれとは厳然と区別される。コレクションの対象にならないものは、流行しない。美文体の商売に全く関係がない。(出久根達郎)

流行語で言えば「自己判断自己責任型社会の到来」インターネットの普及は「調べる」文化を日本へ持ち込んだ。高度な専門知識に対する市民の潜在的なニーズが形成されつつある。
最後まで大量に本が生き残るのは図書館である(常世田良)

eメールがいつの間にかメールと呼ばれるようになったように、eブックがブックと呼ばれるようになる日が来るのか?リアルとバーチャルの融合、紙の本と電子の本それぞれの長所を生かし、欠点を補い合うこと(永井信和)

紙の世界では扱えない新しいコンテンツが扱える、書籍までがマルチメディア情報の時代になってきた。これからの著作者はマルチメディアを十分に駆使し、読者とやりとりのできる機能を持った作品を作る能力が要求される。インターラクティブ性を重視した第三世代の端末用の書籍をつくる、共同著作物が作られる時代に、著作権のあり方を根本的に遠投し直すべき時が来ている。冊子単位でも章節単位でも図、表の単位でも取り出せ、取り出しの単位が可変になる。知識の活用が便利にできる時代が来る(長尾真)

転換は必至であるとしても、共生にできる限りの時間をかけること、電子書籍しか知らぬ世代になった時、果たしてどんな知性が育まれることになるのか、空恐ろしい思いを持つ。明治以降の先人の近代主義で選ばれた古典は先人の知的遺産の1%のみ、和本リテラシー(くずし字の勉強) を回復させれば、残りの99%も利用できるまずは読めずとも原本のまま取り込む。(中野三敏)

買書家、書庫は理想の自分の表現で、読み終わった本の倉庫ではない。いつかは買いためてある立派な本を読み、本物の知性を身につけたダンディな自分の姿を夢見る。書庫は収集物の展示棚。ほとんどの保安をネット書店で購入する、月120冊以上。新刊を知るためには紀伊国屋ブックウエブを利用、しかし配達日が分からないので注文しない。電子出版はまだ広告宣伝と同義、(成毛眞)

本棚がその人の心の中を自然に移しだすものであること。出版者(もの)ワークショップ。本をだいじに届け、一冊一冊をだいじに読みたい(南陀楼綾蘙繁)

電子書籍がやってくる・・根本的な変化について深くまともに関がている議論が見あたらない。一体「情報社会」とは何なのか。
やがて人々は、印刷された本からも聖なるアウラを感じ取るようになった。肝心なのはアウラの消失ではない。
集団内で有無を言わさず強制していく権力メカニズムは何か。書店を訪れると、わがもの顔に平積みされている内容が空っぽでも出版社や書店を喜ばせる「ベストセラー」。かって人々は多様な価値観を持って暮らしていた。今は損得第一の「消費者」に分断される。電子書籍はそういう価値観で我々を洗脳するのか?その違った使用法を見出すことは不可能なのか?(西垣通)

失われたものは表層にすぎず、本質は営々脈々と一貫している。国家的な規模のメディアに対する「本」・本を届けるために体を張った出版「者」・・まったく新しい出版「者」を待つべき時が来た。 (萩野正明)

電子書籍とは抽象的な存在である。冊子の書物の形
「本ではない本」を発明しようというワークショップ(長谷川一)

人が本屋さんに来なければ、人のいる場所に本を持っていく・・誰かと本が出会うための環境作りが仕事。電子リーダーはあまりほめすぎても邪魔にしてもダメ。使い分けを知ることが大事。その領分の整理はなされていない。体が本を忘れないようにすることが重要(幅允孝:ブックディレクター)

大量発話時代と本の幸せについて
分厚いガイドブックをもち歩くことから旅行者を開放。今、泊まっている人のつぶやきのリアリティ。
データでなく書籍としての物質化=「紙の本」への出世の期待、希望する人のみの希望する形の本・・「情報の彫刻」としての輝きは失わない。(原研也)

電子書籍の時代になっても本の中身が変わることはない。だからこそ絵じたる・ネィティブのこれから青立つ人たちは、かさばる紙の本を敬遠することになるのではと思う。
私のような前の世代の者がいる限り紙の本は生命を失うことはない。今道友信先生は、情報は知識になるが、本を読んで考えることは認識になる。知識と認識は違うことを知らなければならないと云うわれた
松岡正剛さんはこれからの本の世界を「ブックウェア」云われている。入れ物の性質によって中身の使い勝手がちがってくる。運ばれる知の質がかなり変質してしまうのではないか、紙の本に囲まれて(福原義春) 

本を読むということは本ごと何かを読むということ
メディアやデバイスが変わっても読書行為に伴う何かはめったに変わることはない
本を読むということは、読書を制作し、編集するということ。
読前、読中、読後における何かをできるだけ捨てないこと。その何かともに本につきあうこと(松岡正剛)

何のかんのと言ったって紙媒体が粘り強く残るに決まっている。ベストセラーを支えるマスとしての読者層とは別にいわゆる「人文書」などの硬い本を愛好するコアな読者層が、いつの時代にも存在する。
価値あるテキストを、ゆっくりと、繰り返し読んで昇華して、生きること、死ぬことの糧となすこと・・
世間のスピードに逆らっても疲れるから、通過していくものはやり過ごせばいいではないか。(宮下志郎)

おまけ
※『江戸の繁盛しぐさ』に出てきた言葉でなるほどと思ったのは、
「尊異論」(P224)
自分と違う意見を尊ぶ・・但し、かならず咀嚼することが条件