猫頭の文房ブログ

人間を獣頭人身で「分類」すると、私めは猫頭。その書斎もとい文房(自室)日常ブログ

『グレート・ビューティー 追憶のローマ』

私が好きになれる映画ではない
26歳でローマに来て
「俗物の王」になりたかった彼
・・いま65歳
一作のみで富と名声を手に入れて、
今は全然忙しくなさそうな、しかし辛らつな雑誌文筆家(インタビューワ―)
「夜のローマ」の暮らしが忙しくて(?)
・・・何も書けない・・・
「フローベールは無は書けなかった」といい
自分も(無は)書けない・・・
「人生を立て直すために」、筆を折っていた作家活動を再開しようと決意する、とか、
「偉大な美」を求めてさまよう作家の姿を描く・・というこの映画の惹句はおかしい、
全然そんな前向きなものではない
虚無的な話で
35年前の美しい人は死んでいるし、他にも・・
かなり、わけがわからない
夜のローマの美術の映像は本当に美しい・・
しかし、これはほんとに訳の分からない(?_?)映画で
最後から2番目に、主人公が
「かくして小説ははじまる」などといっても・・それがなにいっているのか分からないのである
思い返すと、つまりは、
彼女はなぜ自分を捨てたか、を書くのだろうとは思う
彼女の35年であったか連れ添った夫が葬儀の後捨ててしまった日記に何か書かれていたか、を思いながら書くのだろうと思う
彼女の夫が、自分は彼女の日記に2行しかでてないといい、すぐに新しい妻を持ってしまうのを見ながら
聖職者の言動を見ながら、・・
因みに最後は、膝行で階段を上がる104歳の聖女だが、
いやそれが最後から2番目で、最後は、エンドロールのテヴェレ川の流れかもしれない

辻邦生は、イタリアにいると幸福の余りいてもたってもいられなくなる、と「美しい夏の行方」でかき、
ローマに着いて、まずテヴェレ河に会いに行くという話をする。
映画の最後のパラティノ橋

「ローマの孤独は、物質の持つ自閉的な沈黙・拒絶感で、
幸福な人は、ローマの夏の、物質のこの拒絶感の中で、初めて物質の持つ魅惑というものを発見する。それは物の新しい切断面を見るようなものだ」・・という。

おそらくハドリアヌスは二十年の絶対権力の後、死の観念に取りつかれた時、現実はいかに加算しようと、けっして永遠に達しないことを痛いほどに知らされたのであろう。永遠の向こうには、現実を加算する方向ではなく、現実を消去する方向へ―夢の方向へ進まなければならぬことを考えたのであろう。
普通は夢の空しさを知って老年を迎えるものだが、逆に、現実の空しさの果てに夢をやしなうとは、最もしたたかな芸術家気質に似ていないだろうか。(辻邦生「美しい夏の行方」(中公文庫p28)

何かこのあたりが、わけのわからない映画を補足する言葉かもしれない

更に思い返すと
ラファエロの恋人と言われたフォルナリーナの絵を
鍵をたくさん持つ男の案内で夜の国立古典絵画館で見る
あれは主人公を捨てた恋人の姿に重なる
なんでパラッツォ・ヌーヴォの「物を言う像」(マルフォリーナ)の前にソファーを置いて
あの部屋の壁の色の同系色の服を着ているのか?
訳がわからない<(`^´)>


ヴィスコンティやフェリーニ、アントニオーニを見直したくなりました

マーティン・スコセッシ 私のイタリア映画旅行 [DVD]

マーティン・スコセッシ 私のイタリア映画旅行 [DVD]