猫頭の文房ブログ

人間を獣頭人身で「分類」すると、私めは猫頭。その書斎もとい文房(自室)日常ブログ

文化の詩学 "cultural poetics"

子どもの日であったが、何もなし〜返却しなければならない図書を読んでいた
(これぞ図書の効能)
スティーブン·ジェイ·グリーンブラット(1943年11月7日生まれ)の
『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(河野純治訳、柏書房、2012年11月)であるが・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Stephen_Greenblatt
文化の詩学 "cultural poetics"
ポッジョ・ブラチョリーニPoggio Bracciolini(1380年2月11日〜1459年10月30日)は
聖職者ではなく教皇庁の官僚となったブックハンターで、その
1417年のルクレティウスの詩の写本『物の本質について』再発見のものがたり
(1000年の眠りから覚めた古代の美しく説得力のある詩)

目覚めた春が草地を彩り、
自然の新たな光景が立ちあらわれる。
たくさんの花の蕾や明るい緑が姿を表し、
西からの風が怠惰な年の錠を開ける。
喜びあふれる鳥たちがあなたに最初の歓迎の挨拶をし、
素朴な歌で陽気な興奮を打ち明ける。
ついで、あなたの矢に打たれた野獣たちが、
わずかな餌を飛び越えて、流れの急な川をあえて泳ぎわたる。
大地も空気も海も、すべてはあなたの贈り物だ。
息する者たちのありとあらゆる子孫は、
喜びに打たれて、あなたに駆り立てられる。
荒涼とした山々を超え、花咲き乱れる草原を越えてゆく。
青葉茂る森と水の大海が
あなたの自由で果てしない王国に広がる。
あなたはすべての命ある場所をめぐり、
行く先々で優しい愛の種子をふりまく。
(『物の本質について』一巻 9〜20行)


著者は世界的な(という)シェークスピア学者でもあり、シェークスピアがたびたび引用されるが、
表紙はボッティチェリ(1445-1510)の 春・・ヴィーナス
それは偉大な季節の到来による大地の復活を描いたルクレティウスの描写に由来するという
また、モンテーニュ(1533年2月28日 - 1592)所有のルクレティウスもあり・・
ルクレティウスと、世界は永遠の動揺にすぎないというモンテーニュの間には深い親和性がある・・
モンテーニュの懐疑的な気性がエピクロス主義の独断的な確信から彼を守った・・
モンテーニュは自分自身についてこう書いている。「キャベツを植えている最中に死にたいものだ。死のことなど気にせず、未完成の庭について考えているときに。」(p302-308)

ルクレティウスがもたらした疫病の一つの簡潔な名前は「無神論」
だが、実はルクレティウスは無神論者ではなかった。神々は存在すると信じていた。
しかし、神々は神々であるがゆえに、人間や人間のすることに全く関心がないと信じていた。
ルクレティウスは、神々が実際に人間の運命や儀式的習慣を気にかけていると想像するのは、不作法な侮辱であるという(p229)
『物の本質について』はたぐいまれなる傑作である。偉大な哲学作品であり、偉大な詩である。

万物は目に見えない粒子でできている
万物は逸脱の結果として生まれる
逸脱は自由意志の源である
自然は絶えず実験を繰り返している
宇宙は人間のために、あるいは人間を中心に創造されたのではない
人間は唯一無二の特別な存在ではない
人間社会は平和で豊かな黄金時代に始まったのではなく、生き残りをかけた原始の戦いの中で始まった
死後の世界は存在しない
われわれにとって死は何ものでもない
組織化された宗教はすべて迷信的な妄想である
宗教はつねに残酷である
人生の最高の目的は、喜びを高め、苦しみを減ずることである
喜びにとって最大の障害は苦しみではなく、妄想である
物の本質を理解することは、深い驚きを生みだす

トマス・ジェファーソンはラテン語版を少なくとも5冊所有しており、それ以外にもこの詩の英語版、イタリア語版、仏蘭西語版をもっていた(P326)
ルクレティウスの原子は軌道を離れて『独立宣言』に載せられていた。
政府の使命は、国民の生命と自由を守ることだけではなく、「幸福の追求」を支援することである・・

口絵に「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭でうたせた」というシーンのミヒャエル・パッハーの絵があり、
聖書の文章は、虐待された救世主への同情や虐待者への怒りだけでなく、救世主の苦しみを模倣したいという熱烈な要求を促す・・という説明があり、
そこは、キリスト教の杖の話の関連となって興味深いが、、http://www.karakusamon.com/egypt/tue_yakob.html
フスやブルーノの火刑の時代・・・
エピクロス的思考!

シェイクスピアの自由

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