断腸亭という命名は、秋海棠からであるという
秋海棠(ベゴニア)の別名=断腸花というのは、・・私はまだ確認できていないが、
荷風は引っ越した偏奇館にも植えている・・
終の棲家(市川)にはどうだったのか!?(まだ7分の2しか読んでないので不明・・)
ちなみに「断腸亭日乗」の原本は、永井永光(ひさみつ)氏蔵とあるが、(いとこの息子で戦後に養子となった人だという)
原本には花の絵などもあるようだ・・
大正15年6月6日のところに、
不崩丘画伯来たりとあって、
「余弱冠、先生に従い絵事を学ぶ。先生その頃より、牽牛花栽培の術に精通せられ、右に関する和漢の図書にして窺わざるもの殆ど無しという。」
スケッチがこの本にはないのが残念
あけらかんこう(朱羅菅江)が、いぶかしや枇杷という木には実のなりてその後に花なのさくかと、という自讃の歌かきたる一幅を見た
などなど、植物話もけっこうある・・・
ところで、荷風ときたら元旦にチョコレ−トを煮て飲むヤカラだ・・(笑)
でも正月ニ日はお父さんの命日なので毎年墓参りに行っている
(昭和6年正月二日)墓前の蠟梅今なお枯れず花正に盛りなり
(森鴎外・上田敏の命日の7月9日も大事にしているようだ)
ついでに、昭和5年の元旦に、菊池寛からの年賀状を
もらういわれがないといって返送しているとは!何ということをする〜(笑)
その年の8月に谷崎潤一郎が妻を佐藤春夫に譲ったという一件があったが、
「あまりにお可笑しければ次に記す」、と全文引用してある・・
(谷崎は荷風を敬愛していて、その後、昭和20年に、疎開先に呼んだりしている)
芥川龍之介が自殺したときには(昭和2年7月24日)付き合いがないということで、
自分が36、7歳のことを追想して、よくも今日まで無事に生き延びしものよと不思議なる心地せざるを得ない、という感想くらいだった・・
(38歳、大正6年9月16日から「断腸亭日乗」を書き始めた)
昭和2年は円本景気で多大の収入があったようだが、色々つきまとわれたりして悩んだり・・、
それにしてもこのサイト↓には驚いた
http://www.tokyo-kurenaidan.com/kafu2-tokyo_10.htm